081109 【僕はいたって】SとかMとか【まじめです】

[最初に言っておきますが、僕はいたってまじめに書いてます。あとキチンと仕事はしています]
 日曜なのに今日も今日とてコンビニでバイトでしたよん。ふざけるなー。
 でもまあ、まったく気を使わない、入って2年目の女子大生Nさんと一緒だったので、クサクサとした気分も幾分和んだ。最近は、当然のようにして、昼間の忙しい時間帯に独りで店番をやらされていたので、いざ二人で仕事したときの楽さといったら半端なかった。やっぱり二人はいいよーなどと、ホクホク顔で勤務してたんだけど、よく考えたらこれが普通の状態だということに気づき、再びコンビニに対する怒りを燃やす。
 で、暇な時間になる。ここで手持ち無沙汰な空間を、バイト同士でどう埋めあうかという、「インストール」の主人公みたいな葛藤に悩まされる場合が多いんだけど、今日は相手がNさんなので、本当に気を使わない。なんていうか、いきなり「ウンコもれたー」というカミングアウトをしたとしても、「ふーん」で済みそうな雰囲気がある。お互いに、脳みそを一ミリも使わずしゃべっており、ただ思考の流れるままに会話している。「こう言ったら怒るかもしれない」とか、「どう反応したらいいんだろう」とか考えることは一切なく、安心しきった関係が実に心地いい。コンビニ自体は大嫌いだけど、こういう気の許せる友達ができて、本当にここのバイト入ってよかったなあとシミジミする。
 ところでNさんは僕をよく叩く。冗談めいた調子で叩くので、あんまり痛くもないのだが、たまにクリーンヒットするときがあり、そういうときはちょっと痛い。ここで、「変態!」とか思わずに聞いて欲しいのだけれど、僕はそのNさんによる、暴力と冗談すれすれの殴りが嫌いではなく、むしろ大好きであることを告白する。痛いのがきたときに、「あ、ごめんなさいいいーペコリ」となるNさんもたまらない。これは、たぶんに僕の性癖にM気質があるが故で、女性から殴られるのが嫌いではないというところに起因するのだろう。
 しかしよくよく考えてみると、どうもそれは正確ではない。というのも、じゃあ女性なら誰に殴られてもいいかと言うと、そうでもないからだ。得体の知れない女に殴られれば、「なんだこのアマ」と悪態をつく自分が容易に想像できる。
 じゃあ、その得体の知れない女と、Nさんの間で何が違うのかと考えてみる。と、やはりこれは信頼感の違いであると思う。Nさんなら、何の照れや気負いもなく、存分に情けない自分がさらけ出せる。この人なら従ってもいいやフニャア(←ココ重要!)と思えるが故、自分の精神を容易にMモードへと移行させることができるのだろう。Nさんのことを信頼しきって初めて辿り着く境地である。
 逆にNさんは、この情けないモードの23歳にノリノリで殴ったりチョッカイをかけたりする。その表情には楽しさが浮かび、嫌悪感は一切感ぜられない。それどころか、頼んでもないのに隙を見てはM心をくすぐる何かをやってくる。、Nさんは他の人にはそういうことをやらない大人しい人種だというのもポイント。
 で、さらにここが重要なんだけど、ただただ絶対的に僕が、地位的にも、思想的にも一方的に下で、バイトでもやたらめったらこき使われてるのかと言えば、そうではない。4年目の僕と2年目のNさんという、先輩後輩の関係はきっちり守られており、時折接客の甘すぎるNさんに声を荒げることもあるぐらいだ(ていうか二年目なんだから、そろそろキチンとしてもいいと思う)。僕がMだから、向こうがSだからと言って、仕事上でもそういう関係にあるわけではない。そこはまったくの別次元だ。
 この一連の流れを見て、「これは恋愛なのでは?」という結論に至るほど僕はおめでたくない。断じてそれはない。向こうには何年も付き合った彼氏がいるし、僕は僕で恐妻になりそうなYちゃんが待っている。これは言葉では説明できないし、あえて言うなら空気で分かる。そんなんじゃない。ただ、互いを飾らずさらけ出せる何かがある。そこにSMの概念が絡んできたと僕は思った。
 江川達也が、「東京大学物語」で、地位とか名誉とか男とか女とかそういう飾り物を捨て、抑圧から心を解放することでSとMの関係が生まれるとかそんなニュアンスのことを描いていた。そら、信頼しきった相手じゃなきゃ、M側の人が醜いほど従順にはなれないし、ひいてはそのMを、Mモードにさせる何かがS側になければSMなんていう関係が成立するはずもない。
 そういえば、江川達也は作中でキャラクターに、「本当のSは、Mのしてもらいたいことを考えて、Mが気持ちよくなるように奉仕してあげることだ。そういった意味では本当の奴隷はMのほうではなく、Sのほうなのだよ」的な台詞を言わせてて、これはなるほどなと思った。
 昨今、SとかMとか軽いノリで若い男女で叫ばれてるのを見て、なんとなく嫌悪感を感じてたのだけど、こういうところに嫌悪の元があったのかもしれない。「俺はドS。だから彼女に冷たい」とか、「私はMだわー。いっつも暴力ふるわれるし」とか、こういう軽いSMの解釈を、声高に居酒屋で叫びあってる男女を見るにつけ、「相手のことを考えてこそのSMだろうが!」と憤りを覚える。ソフトなら必ず、たとえ、それが過激なハードSMであったとしても、Mのやってもらいたいことをちゃんと考えてSは実行に移している。
 ここまで考えると、勘違いS男、S女の扱いはめんどくさい。相手のことを考えず、ただひどいことをする傾向を、Sか何かだと思っている。この種の人を見ると、僕はMだけど、無性に瓶ビールを投げつけたい衝動に駆られるのも、あながち頷けるのじゃないかな(Mの間違った使用例)。
 でも、SMについてインターネットで調べてたら、「刃物や紐、自作の拷問器具を使って、自分を極限状態に追い込み、そこでオナニーをして快楽を得る」という形の、相手の介在しないMも存在して、僕はお手上げでした。さらに言えば、それで死亡事故なども起こっているらしく、他殺との区別がつかないとか。そういうとき、他殺かプレイかを分ける証拠は、「射精痕の有無」らしいっす。アホか。
 結局、SMを一口に語るのは無理ということが分かった。だから居酒屋で軽くSとかMとか語るなよって話。それをNさんにちょっかいをかけられながら思ったんだふにゃあすいませんすいませんすいませああああああああああああああああああああああああああああああああああ。