[最初に言っておきますが、僕はいたってまじめに書いてます。あとキチンと仕事はしています]
日曜なのに今日も今日とてコンビニでバイトでしたよん。ふざけるなー。
でもまあ、まったく気を使わない、入って2年目の女子大生Nさんと一緒だったので、クサクサとした気分も幾分和んだ。最近は、当然のようにして、昼間の忙しい時間帯に独りで店番をやらされていたので、いざ二人で仕事したときの楽さといったら半端なかった。やっぱり二人はいいよーなどと、ホクホク顔で勤務してたんだけど、よく考えたらこれが普通の状態だということに気づき、再びコンビニに対する怒りを燃やす。
で、暇な時間になる。ここで手持ち無沙汰な空間を、バイト同士でどう埋めあうかという、「インストール」の主人公みたいな葛藤に悩まされる場合が多いんだけど、今日は相手がNさんなので、本当に気を使わない。なんていうか、いきなり「ウンコもれたー」というカミングアウトをしたとしても、「ふーん」で済みそうな雰囲気がある。お互いに、脳みそを一ミリも使わずしゃべっており、ただ思考の流れるままに会話している。「こう言ったら怒るかもしれない」とか、「どう反応したらいいんだろう」とか考えることは一切なく、安心しきった関係が実に心地いい。コンビニ自体は大嫌いだけど、こういう気の許せる友達ができて、本当にここのバイト入ってよかったなあとシミジミする。
ところでNさんは僕をよく叩く。冗談めいた調子で叩くので、あんまり痛くもないのだが、たまにクリーンヒットするときがあり、そういうときはちょっと痛い。ここで、「変態!」とか思わずに聞いて欲しいのだけれど、僕はそのNさんによる、暴力と冗談すれすれの殴りが嫌いではなく、むしろ大好きであることを告白する。痛いのがきたときに、「あ、ごめんなさいいいーペコリ」となるNさんもたまらない。これは、たぶんに僕の性癖にM気質があるが故で、女性から殴られるのが嫌いではないというところに起因するのだろう。
しかしよくよく考えてみると、どうもそれは正確ではない。というのも、じゃあ女性なら誰に殴られてもいいかと言うと、そうでもないからだ。得体の知れない女に殴られれば、「なんだこのアマ」と悪態をつく自分が容易に想像できる。
じゃあ、その得体の知れない女と、Nさんの間で何が違うのかと考えてみる。と、やはりこれは信頼感の違いであると思う。Nさんなら、何の照れや気負いもなく、存分に情けない自分がさらけ出せる。この人なら従ってもいいやフニャア(←ココ重要!)と思えるが故、自分の精神を容易にMモードへと移行させることができるのだろう。Nさんのことを信頼しきって初めて辿り着く境地である。
逆にNさんは、この情けないモードの23歳にノリノリで殴ったりチョッカイをかけたりする。その表情には楽しさが浮かび、嫌悪感は一切感ぜられない。それどころか、頼んでもないのに隙を見てはM心をくすぐる何かをやってくる。、Nさんは他の人にはそういうことをやらない大人しい人種だというのもポイント。
で、さらにここが重要なんだけど、ただただ絶対的に僕が、地位的にも、思想的にも一方的に下で、バイトでもやたらめったらこき使われてるのかと言えば、そうではない。4年目の僕と2年目のNさんという、先輩後輩の関係はきっちり守られており、時折接客の甘すぎるNさんに声を荒げることもあるぐらいだ(ていうか二年目なんだから、そろそろキチンとしてもいいと思う)。僕がMだから、向こうがSだからと言って、仕事上でもそういう関係にあるわけではない。そこはまったくの別次元だ。
この一連の流れを見て、「これは恋愛なのでは?」という結論に至るほど僕はおめでたくない。断じてそれはない。向こうには何年も付き合った彼氏がいるし、僕は僕で恐妻になりそうなYちゃんが待っている。これは言葉では説明できないし、あえて言うなら空気で分かる。そんなんじゃない。ただ、互いを飾らずさらけ出せる何かがある。そこにSMの概念が絡んできたと僕は思った。
江川達也が、「東京大学物語」で、地位とか名誉とか男とか女とかそういう飾り物を捨て、抑圧から心を解放することでSとMの関係が生まれるとかそんなニュアンスのことを描いていた。そら、信頼しきった相手じゃなきゃ、M側の人が醜いほど従順にはなれないし、ひいてはそのMを、Mモードにさせる何かがS側になければSMなんていう関係が成立するはずもない。
そういえば、江川達也は作中でキャラクターに、「本当のSは、Mのしてもらいたいことを考えて、Mが気持ちよくなるように奉仕してあげることだ。そういった意味では本当の奴隷はMのほうではなく、Sのほうなのだよ」的な台詞を言わせてて、これはなるほどなと思った。
昨今、SとかMとか軽いノリで若い男女で叫ばれてるのを見て、なんとなく嫌悪感を感じてたのだけど、こういうところに嫌悪の元があったのかもしれない。「俺はドS。だから彼女に冷たい」とか、「私はMだわー。いっつも暴力ふるわれるし」とか、こういう軽いSMの解釈を、声高に居酒屋で叫びあってる男女を見るにつけ、「相手のことを考えてこそのSMだろうが!」と憤りを覚える。ソフトなら必ず、たとえ、それが過激なハードSMであったとしても、Mのやってもらいたいことをちゃんと考えてSは実行に移している。
ここまで考えると、勘違いS男、S女の扱いはめんどくさい。相手のことを考えず、ただひどいことをする傾向を、Sか何かだと思っている。この種の人を見ると、僕はMだけど、無性に瓶ビールを投げつけたい衝動に駆られるのも、あながち頷けるのじゃないかな(Mの間違った使用例)。
でも、SMについてインターネットで調べてたら、「刃物や紐、自作の拷問器具を使って、自分を極限状態に追い込み、そこでオナニーをして快楽を得る」という形の、相手の介在しないMも存在して、僕はお手上げでした。さらに言えば、それで死亡事故なども起こっているらしく、他殺との区別がつかないとか。そういうとき、他殺かプレイかを分ける証拠は、「射精痕の有無」らしいっす。アホか。
結局、SMを一口に語るのは無理ということが分かった。だから居酒屋で軽くSとかMとか語るなよって話。それをNさんにちょっかいをかけられながら思ったんだふにゃあすいませんすいませんすいませああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
081027
たばこを吸う人の気分を味わってみたかったので、生まれて初めてタバコを買ってみた。マイルドセブン・エクストラライト。いきなりド軽いタバコだけど、これは僕の中の遺伝子が、必死に「肺ガンで死ぬよ」という信号を送り出してきたが故の妥協。肺ガン怖い。じいちゃんもおじさんも肺ガンで死んだ。いや、分からん大腸ガンだった気もする。まあでも生まれて23年。嫌煙家をきどる僕だったけども、なんつーか、吸ってもいないのに嫌煙ってのもなんかフェアじゃないな、なんて思ったので、とりあえず体験しといてもよかろう。
早速中の銀紙をびりりとやぶいて、スッと一本抜き取り口にくわえる。この動作。なんていうか……クセになる。中学の頃。ヤンキーたちが競うようにしてタバコをスパスパやってたのを遠巻きに見ながら、なんであんな煙を吸いたいんだろうとか思ってたけど、今なら分かる。なんつーか、この儀式を経ることで、大人の階段を一歩のぼったような感じが。煙の匂いをまとうことで人は大人になる、みたいな。そういうヤンキー中学生の若々しい幻想を23にして実感し、おお。と無闇に感動。
吸い込みながら火をつけ、一息ふーっとくゆらす。他人が吸ってたときは副流煙がメチャメチャいやだったのに、自分で吸ってると全然気にならないのに驚いた。て、そこなの? て自分に突っ込みをいれつつ、味はどうよと自問自答してみるが、特にない。煙だ。強いて言えば、モラウみたいでかっこいいなあ、なんて感じか。あ、また味じゃなかった。
とにもかくにも、今日から僕は愛煙家というわけで、タスポのめんどくささに文句言ったり、財務省に「値上げ反対」とか叫んでみたりしてもいいわけだ。戦場などで、赤外線センサーで動くトラップとかを、紫煙で察知して回避することも可能だし、ちょっと暗いところではタバコを吸いながらだと視界が明るくなりますよ、なんてほくそ笑むことも可能。あと、肺がんに怯える気持ちとか、人間ドックへの真剣味とかも変わってくるだろうね。人生における、色々な可能性を獲得したわけだ。これは大きい。今日から一日一本タバコ生活。……しかし喫煙1日目にして、1箱300円も払いたくもないっていう自分もいる。せめて50円ぐらいだったらなあ。
小説の話。推敲は今日は400文字ぐらいしか終わらず。水曜に輪講発表なので、その資料作りに時間を取られた形。
推敲してて思ったけど、僕の文章は「その」とか「そして」とか無駄な代名詞、接続詞が多すぎて萎えた。思い切って削りまくったけど、意外と意味は通じるしすっきりする。よっぽどのとき以外は代名詞とか接続詞は使わんほうがいいかもな。なんて。
寝るかー。
081026
昨日は夜の2時まで恩田陸の「ネバーランド」を読み、その後寝ようとするが中途半端にしか寝られず、朝4時くらいまで頭は起きてるけど、体が一切動かないという気持ちの悪い現象に襲われたので、眠い。あれがいわゆる金縛りというやつか。半覚醒になってしまったのは、多分にネバーランドの雰囲気に当てられたかなんかだろう。
ネバーランド。なんつーか、怖くないんだけど奇妙な話だった。キャラクターの立て方とその隠された過去、お互い危うい秘密を共有しながら、安易にキャラクター同士つかず、かと言って離れずの絶妙な関係性が、気持ち悪いほどリアル。ラノベや漫画みたいに、やたらめったらキャラ同士が戯れ合う感じって、人間ぽくなくて嫌いなんだよ(ていうかその前提で書かれてると思うんだけど)。その点この話は、生きた人間が本当に戯れ合ってたように思う。作品の中で、共同生活を続けていると、「不機嫌や無関心を露呈しても平気になる」ていう記述があって、あー、そうだよなーと純粋に納得した。恩田陸すごし。
彼女からの意味不明の無内容メールで目覚め、寝起きのまま電話をかけて30分くらい話す。最近会話してても、お互い不意にテーマがぶっ飛んだり、思ったことを反射的に口にすることが多くなった。例えば、全然関係ないのに急に「猫飼いたい」と言う声が聴こえたり、「胸もみたい」と僕が口にしたり。メールの電波具合も半端じゃなく、突然彼女からクマとアヒルの絵文字でうめつくされたメールが届き、それに僕は自分ちの猫の写真を添付してメールを返すとか、まるで意味をなしてない。感覚でコミュニケーションとってる感じ。その感じが嫌いでなく、だからネバーランドで例の記述が出たとき、無闇に感激したのかなと思う。なんつーか取り繕いとか余分(必要?)なものを剥して、気持ちでぶつかってる感じがさ。いいよね。
小説の話。推敲は原稿用紙換算で30枚ぐらい進んだか。展開に無理なところがある気がしたので直そうか悩み中。でもあそこを直すとしたら、大幅の修正が必要になるような気がしてなあ。書き上げて誰かに批評をもらったあとにでも直せばいいか。書き上げることが一番、質は二番。
今から風呂入ったあとコンビニのバイト。一緒にシフトに入るのは巨乳の女子大生。胸もみたい。ぐだぐだと書いてきたけど胸もみたいに終始する。最後に残るのは性欲だ、とか誰か偉い人が言ってたような気がするけど、気がするだけかもしれん。胸もみたい。それも人間ぽくていいよね。
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シーザードレッシング
8月27日 晴れ
ヒザの痛みがひどいので、今日は学校を休まざる負えなかった。おやおやまたズル休みですか、と僕を知る人たちが、ニヤニヤしそうだけども、今回は渋々休んだ。というのも、先週作った半導体膜が酸化しちゃうなー、早く測定しないとなーという懸念があった。んだども、布団から出るのにもヒザに激痛が走ったので、俄然学校に行きたくない。まあいいや。半導体ちゃんもあと一日ぐらい持つだろ。
でも、休む理由は何にするべ、と考えたところ浮かばない。まさか正直に、「1週間で300キロぐらい走ったのでヒザが壊れました」と言うわけにもいかない。といって前半の部分だけすっとばして、「ヒザが痛いので休みます」では、バイト休むときの女子高生の言い訳よりひどいことになる。あれこれ思案した結果、まあ言わなくてもいいやという結論に達し、後日「サークルがあったんすよーすいません」とでも言っておけばよかろうという気になった。サークルは就職以外にも役に立つ。
で、ヒザが痛いので病院にも行けないという悪循環を体に感じつつ、一日中ゴロゴロしてた。ゴロゴロしながら小説やらエッセイやら読んでた。扇風機を横に、猫とともにゴロゴロ。あー、宝くじさえ当たればな。などと楽に生きる方法を思案してたらそのまま寝た。
夕方。起きたら母親が帰ってきてて、なぜか得意顔で僕を呼ぶ。見ると、キッチンにはシーザードレッシングが。歓喜! 僕は無類のシーザードレッシング好きで、ことあるごとに、母親にシーザードレッシングを我が家に導入してくれと頼んでいた。だが、母は「サウザンドレッシングのほうがうまいし」と食ってもないのに、勝手にシーザーを見限っており、「試してもないのに不公平だ! もうオレは自分で買う! 買っても母さんらには使わせないからな!」とひと悶着があったのだけれど、やはり母親だ。ちゃんと息子の声を聴いてるもんだ。
で、夕飯時。母さんが、張り切って大量のサラダを作り、しかもそれを僕の皿にだけ盛り付けてきた。「シーザードレッシング、好きなんでしょ?」とか言いながら、僕だけにシーザー的VIP待遇。なんつーかそういうことじゃない気がした。なんてんだろ? 好きだけど、こう特別待遇でされると気持ちが萎えるっつーか。気負わず普段どおりの空気で味わってこそのシーザーというのか。子供の誕生日パーティーで、両親だけ異常に張り切ってるけど、子供は冷めてるっつーのかな。なんていうかそういう子供心。お膳立てをし過ぎることへの失望。その辺を母さんは分かってない。とか思ったら、僕は来年で24だったのでちょっと僕大丈夫かな? と自分に対して心配になった。
まあそれよりもシーザーですわ。いつも生協の食堂か居酒屋でしかお目にかかれないシーザーが、家庭にある嬉しさ。そして奇妙さ。ワクワク感。それらの想いを一気に背負って、早速サラダにシーザーぶっかけて食った。モシモシ。モシモシ。うん。うまい。しかし、思ったほどの感動がない。はて、なんだろうか? クルトンが入ってないからだろうか。あるいは、家庭用と思って量をケチりすぎたのがいけなかったか? もっとドバっとかけたほうが……
などと思案してたら、母さんが勝手に僕のサラダに箸を伸ばした。「あ……」と言うまもなく、シーザーサラダは母の口に放り込まれた。「……うん、うまい」と漏らす母親。しかし表情が物語る。「やはりサウザンだな」と物語ってる。プライドを傷つけられた僕は、「いや、ちげーし。もうちっとドレッシングがついてるところを食いなよ」と言って、わざわざドレッシングをかけ直し、母親に食べさせる。気持ちとしては選手を見限った代表監督に向けて、「あいつの力はこんなもんじゃないんです!」と再テストを懇願する同僚の気持ちか。したら、母親。「うまいけど、サウザンドレッシングと同じじゃない?」などと狂ったことを言い出したので、再度一家に嵐が吹き荒れた。どんな舌をしているのか。言うに事欠いて、サウザンとシーザーを同格に置くとは。お互いの支持ドレッシングを、しきりに罵りあう親子。ドレッシングによる親子げんか。
最終的には、「もう二度とシーザーは買わない!」「あーあー買うな! オレは業務用スーパーで勝手に買ってくるからな! おたくらは使うなよ!」という、最初の結論と同じ道を辿り議論は収束した。ヒザが痛い。
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