こんにちは。茶太郎です。4ヶ月です。最近は一日中いるもっさい男の足にマウンティングをするのにハマってます。なんかあの足、欲情するんですよね。僕もやなんですよホントは。でも本能って止められませんよね。
今朝は件のもっさい男が謎の葉をつんできました。
んでもって、なんかぐいぐい無理矢理押し付けてくるんスよ。謎の葉を。こっちもなんだろうって思うじゃないすか。ニヤニヤニヤニヤ夫婦そろって「タンポポだよー」なんつって。ああ、これは食べて欲しいんだなとピンときました。こういうとき食べてやると狂喜乱舞して喜ぶんで、はあ仕方ねえなっつってもぐもぐやってやったわけですな。
そしたら、まあなかなか美味い。いつも食べてるペレットの5倍ぐらいはうまい。まあブロッコリーの乾燥葉には敵わないっすけどね。あいつらにしては中々、オツなことしやがると思いましてね。ひとしきり喜びのジャンプなどを披露したわけです。夫婦そろってキャアキャア言いながら喜んでましたわ。僕もいよいよ演技派になってきたなと満足したわけです。
したらあの夫婦、調子に乗ってさらに謎の葉を用意してくんの。あ、少々調子づかせたなと思いました。奴ら葉っぱならなんでも食べるとふんでやがる。こちとらウサギ族は人間なんかよりよっぽどグルメなんで、半端な仕事したら承知しねえぞっつって。
まあ一応臭いをかいでみました。一応ね。社交辞令的に。夫婦曰く、これはカブの葉らしい。カブねえ。ウサギ界隈では食べるヤツもいるとか聞いたけど、僕わりとグルメなほうなんで。けっこうキビシメに匂いを吟味しました。マレーシア産のやつとかだったら絶対駄目なんで。国産派なんで。
うーん。
(゚⊿゚)イラネ。
なんつーか匂いというかやっぱ水分多すぎ。こんなもん食うたら下痢になるわってなもんで堂々と拒否してやりました。ええ。
したらあの夫婦、一生懸命水気を取り出しましてね。タオルでふきふきぎゅうぎゅう押してね。まあいっぱいありましたよ。結構大変なんじゃないかなーなんて。なんかこっちが悪いみたいな空気になってきて、逆に腹が立ってきましてね。
おまけにカブを日干しにするってんで、リビングのど真ん中の窓に天日干しし始めたんですよ。信じられます? ますます食べないこっちが悪い的になってきたし、リビングの真ん中はDASH村みたいになってるし景観損なわれましたよ。へやんぽするときにあんな目障りなものあったらやじゃないですか。ますます腹が立ってきました。今日絶対にへやんぽのときに足ダンしてやります。2回ほどやると思います。大人げないと思いますか? 甘い甘い。言わなきゃ分かんないんですよあいつら人間ってやつはね。
piles of flashback ~Kさんのパンチラ~
「恥の多い生涯を送って来ました」
太宰治の「人間失格」。第一の手記は上記の一節から始まる。普通に生活していれば一度は耳にした言葉であろう。思えば作中の葉蔵が自身をいつわり、青年期に悩み、脳病院に送られるまでに多くの恥を犯してきたのと同様に太宰もまた多くの恥を食い、玉川に入水するにいたったのではあるまいか。
しかし人は誰しも恥だらけの人生を送っていると僕は思う。恥は時折、シャワーやトイレ、入浴といった無心になった隙間にひょっこりと顔を出す。そのたびに「ああああああー」と声なき声を発し、過ぎてしまった恥はあたかもフラッシュバックのように人を苛んでくる。今回はこうしたフラッシュバックの積み重ねを、独白することによって幾分か軽減しようとする試みである。
春の風が強くなってきた。町中では吹きすさぶ風によってスカートをたなびかせ、白いパンツをちらちらと申し訳程度にちらつかせる光景が増えてきた。
パンチラ。世の男子は可愛い女性のパンチラを拝んでは、学校の放課後、あるいは安居酒屋の肴として「今日可愛い子のパンチラを見てよう。ラッキーだったね。春の風ときたら花粉を飛ばすだけのはた迷惑なものとばかり思っていたが、存外、悪くないものだな。ははは」などと助平顔を隠す事もなくやいのやいのやっている。
あるいは、幸運なパンチラを御開帳いただいたものの、その御開帳ヌシの顔面があまり良くないと、男子達は「今日は悪いの食らっちまってねえ。一杯口直しをしたいものだ」などと安キャバクラに赴く。質が良かろうと悪かろうと、一応はよいコミュニケーションの話題として一役買う。パンチラとはそのようなものである。
僕の脳裏にも中学校時代に見たパンチラが時折よぎる。御開帳主はKさんである。Kさんはテニス部、推定Dカップ。その豊満な体幹を軸に繰り出される強烈なストロークは健康的だけどエロいという相反する性質がある。若干パーマがかった黒髪は健康的に日に焼けたKさんの端正な顔にはり付き、動くたびにぱあっと汗をはじき、なびく。と同時にキュロットスカートから見えるのはVラインの黒い影。これこそパンチラ。そもこういう場合は女子はいわゆる見せパンを履いているのが普通だが、どだい中学生の僕には見せパンだろうがブルマーだろうが等しくエロかった。少なくとも中学男子にとってそれはパンツだったのである。それで顔も可愛いとなればピンフタンヤオドラ4、倍満的な。もう無敵。色々そろいすぎてる。Kさんはそう言った意味で中学校のマドンナ的存在であった。
そのマドンナのパンチラをいまだに思い出す。
「うわああああああ」
僕はKさんのパンチラを思い出すたびに叫ぶ。興奮して叫ぶのか。否、胸中に浮かぶのは仄暗い罪悪である。
話は中学2年生の朝礼までさかのぼる。僕の中学の朝礼は体育館で行われていた。校長だか誰だかが退屈なスピイチを披露している。中学生達はその血にも肉にもならないどうでもいい話を馬耳東風、馬の耳に念仏。そういったテイストでただ黙り体育座りをしていた。体育座りなので尻が冷たい。何か面白いことはないか知らんってことで、周囲をキョロキョロしたり、前後でつっつきあったりなど各々がヒマをつぶしていた。
僕もご多分にもれず退屈だった。なにかないかと思い、ふと後ろを見た。そこにはKさんがちょこんと体育座りをしていた。おお、やっぱりKさん可愛いなあなんて思いながら頬にできたニキビをプチュリとつぶす。ねばねばと指先についた白いニキビのしんを学生服のズボンになすりつけつつ、Kさんをちらちら見ては目の保養としていた。
そのときである。嗚呼、スカートで体育座りを命じた教員の愚かしさを呪わずにはいられない。Kさんが思いっきりパンチラをしていたのである。しかもいつものテニス部で見せるあの見せパンではない、いわゆる純白の(そう、それは視覚的な意味でも文学的な意味でも純白でした)パンティーをはいていた。純白のパンティー。こんなにいい響きがあろうか。それこそ男子あこがれの筆頭株。おまけに可愛い可愛い「Kさんの」という形容がつく。Kさんの純白パンティー。最高である。捨てる神あれば拾う神あり。つまらない朝礼を耐え忍んでいた最中の思わぬ幸福。僕は興奮していた。
次の週、その次の週の朝礼のときも何気ないふりをしながら後ろを見た。Kさんはいつもパンチラをしていた。全て、見せパンではなく本式のパンティーだった。縞模様のときも白いときも、ベージュの時もあった。これは最高のショーである。くそくだらない朝礼は僕の溢れ出るリビドーを満足せしめんショーへと変貌を遂げていた。僕はムチムチギャルを見た時の亀仙人のように「たまらん、たまらんですなあ」とニキビをプチプチつぶしながらKさんのパンチラを楽しんでいた。
とある週であった。その週の朝礼もKさんのパンチラに心躍らせていた。膿んだニキビの汁は赤く僕の頬をそめ、膿み汁が頬を垂れあごの先にまで達していた。「いよっ! 今日は何色かなあ」と段々ずうずうしくなった僕はもはや堂々と、後ろを見た。
しかしおかしい。Kさんときたら今日は絶妙にスカートを伏せさせ何も見えないではないか。そんなあ、唯一の楽しみが。しかしあれほど毎週堂々と見せていたKさんが今日は一体どういう了見だと下からなめるようにKさんの顔へと視線を移した時だった。
Kさんは汚物を見ていた。いや、正確には汚物を見る目で僕を見ていた。Kさんはスカートをずりずりとさらに下へ下へと操り、パンツを隠している。隠しながら気持ち悪そうな目をし、僕を睨んでいた。
それから大分ときがたった。
中学生だった僕はいまやすっかり大人になっていた。日々の仕事に追われ、取引先の無理な仕様変更に憤り、それでも自分のパフォーマンスを最大限に発揮して仕事をこなしていた。結婚もした。しかしそのときのKさんの目。パンチラとセットで時折脳裏にフラッシュバックしては僕を苛んでいた。フラッシュバックの時間は時を経るにつれ段々と長くなって行き、このままではこの白昼夢に僕の生活の時間の大半がシフトしていきそうな勢いである。
このフラッシュバックを沈めるためにKさんと会いたかった。会って、謝りたかった。バカ正直に堂々と「パンチラを見てすみませんでした」と誠実にいくか。いっそのこと一緒に飲んだりして、場が和んだ拍子に軽いノリで告白するか。「いやあ、あんときはKさんのパンチラだけが朝礼の楽しみだったんだよねー」だなんてノリで。Kさんが「やだーもうY平君サイテー!」などと言い言い場は盛り上がるだろう。「Y平はいくつになっても変態だなあ!」だなんてお調子者が囃し立てる。そう、あれは過去の事だ。当時は気持ち悪くても今は違う。過去のことなんて今は笑って流してくれるだろう。ああ、Kさんと飲みたい。脳裏にはまた忌まわしき純白のパンティーがよぎっていた。ああああ、Kさん、助けてくれ。会いたいです。会ってお話をさせてください。
そんなフラッシュバックに苛まれる毎日の中、中学の同級生と飲む機会があった。中学のしょうもない昔話を肴に話をしながら、同級生はなにかの拍子にこう切り出した。
「そういえばさ、この前同窓会があったよ」
「ええ、いいなあ。誰が来てた」
「○○とか、△△とかね」
「うわー懐かしいな。△△とかなにしてんだろうなー」
「なんか離婚して大変らしいよ。子供もいるとかで。まあでもあれだ。ああいう集まりを開いてくれる人はすごいね。今どこにいるかも分からないのに、わざわざご苦労様って思うよ」
「ちなみに誰が主催者だったの?」
「ああ、Kさんだよ。そういえばお前来てなかったな」
僕の目の前には純白のパンティーがあった。そしてそのパンティーの奥に、Kさんの汚物を見る目が光っていた。僕は頬をかいた。頬にはなにもなく、ただただニキビの跡のみがうっすらと定着していた。
4月28日 精神科で説教をくらう
「そらね、あんた。奥さんとちゃんと会話しないとだめだよ」
長野病院は精神科の診察室で、柳葉敏郎似の精神科医は呆れた顔でものを言っている。ギバちゃんの前で借りてきたネコのように縮こまり、「はあ」とか「そうですか」とか気の無い返事ばかりを返す壊れたPepperのようなのが僕である。
「仕事にやりがいがないとかねあんた。やりたいことだけやっていられる幸せ者なんて、この世で一握りぐらいしかいないように思えるけどね。あんたはその一握りになりたいと、まあ、そう言っているわけかい?」
責め立てられていた。この医師の中で、僕は結婚生活に悩んでおり、仕事にやりがいを感じていない一健常者としてのシナリオを組まれていた。
「あんたはこの病院にきて、わたしらに何をしてもらいたいんですか? どうなりたいんですか?」
幸せに、なりたい、です。喉奥のごく手前まで出かけた言葉を飲み込み、僕は黙り込んでいた。お門違いだ。幸せになるならないを相談するんであれば、精神科医ではなく牧師や神仏の像に吐き出すのが上策であろう。
ギバちゃんはひどくいらついているように見える。あるいは自称精神病患者の擬態を看破せしめんとし、テクニックで患者に悪態をついているのかもしれない。挑発に乗ってくるか否か、その反応をさぐり、心の病の真偽を確かめているのかしらん。僕はそのようなことを思っていた。僕も同じくひどくいらついていた。
「とにかくね、本当に状況を変えたいんであれば、奥さんとの結婚生活を見直して、仕事を変えるとか、なんとかやってみないとね。うちじゃあどうにもならないよ」
ギバちゃんがみのもんたに見えてくる。思いっきり生電話のコーナーテイストの話題をかれこれ30分、えんえんと続けているギバちゃん。人生相談@精神科。ギバちゃんがそんなものをやらされるのをウンザリしているのと同様に、僕もウンザリしていた。そんな話をしにきたんじゃないのは僕だって分かっている。
「すると、このような症状は、疾患ではなく環境にあると、そうおっしゃいたいんでしょうか?」
「そうそう」
ギバちゃんの顔にMacBookの詰まったリュックをぶちまけたいという衝動に駆られた。ここでギバちゃんに暴行を働き、窓を割り、カルテをビリビリにやぶいてそれを食べればあるいはギバちゃんも僕を診る気になろうか。そんな妄想をしつつ、僕の正常なる理性が「さすがにそれは」と尻込みを促す。うん、正常である。正常なのである。
「ひとまずね。薬を変えて様子を見させてください。この薬、気分の波を和らげる効果、あるからね。それとこれ二錠、睡眠薬。どちらも夕方に飲んでぐっすりと寝てくださいな」
ギバちゃんはみのもんたから急速に精神科医の顔に戻ると、事務的に説明をし出す。
「趣味は?」
所在なげにカルテをつつきながら、唐突にギバちゃんが切り出した。何? なんて?
「趣味は?」
繰り返すギバちゃんの顔には微笑が浮かんでいる。
「小説を書く事……ですかね」
「ほう。何の小説を書くのかい?」
「SF小説とかラノベとか」
「いいねー。SFかあ。売ったりしてるのかい?
「いえ、まだ本を作ったりはしてないですけど。Web上で公開したりとかしてますね」
「SFだったらあれかい? ○○○○(作者名失念)とか? 読むのかい?」
「ああ、まあ○○○○は存じ上げませんが、星新一とか筒井康隆とか」
「いいね。パプリカ?」
「あー、面白いですね」
ギバちゃんの顔に初めて笑顔らしい笑顔が浮かぶ。愛想の無いキャバクラで、ようやくキャバ嬢との共通の趣味を見つけた30男の気分。与太話に花が咲く。40分何円とかで僕はギバちゃんとの時を買っている。無為な時を。
「するとやはり奥さんとの共同生活でそういうものを書く時間もない?」
「はあ、まあ」
露程もそう言う気持ちはないが同意しておく。そもそも時間があろうとなかろうと書ける時は書ける。小説とはそういうものだ。ただただ早く話を切り上げたかった。
「何かをやりたい気持ちはあるのに、奥さんとの共同生活でそれが妨げられていると。はあ、やっぱりね。こういうことは一度奥さんとじっくり話してみるに限るよ」
話すって何を?
「それじゃああれだ。うーん……5月7日の午前。またね、診察に来てくださいね。今日はもういいですよ」
カレンダーを指差しつつ目を伏せるギバちゃん。もはや僕の顔を見てさえいない。
「はい。ありがとうございました」
僕は受付で薬が出てくるのを待ちつつ人間失格を読む。愛想の悪いギバちゃんだったが気分はなぜか晴れやかだ。精神病者として扱われなかったこと。針のむしろのような気まずい診察室。まるで虫歯もないのに歯科医に来て、歯石も歯垢もないときて、「さあどうしよう。何をしましょうか?」と困惑顔の歯科医を見た気分。全てが健常である事を示していた。社会になじめないのと同様に精神科になじめなかった。しかしなじめないことがプラスに感ぜられたのは初めてである。
働こう。ただそれだけを思った。
夜は新しい薬が効いたのか23時に寝る事ができた。夢を見た。とんでもなく楽しい夢だったはずだが翌朝起きたときには何を見たのかさっぱり思い出せず、ただ顔を洗って歯を磨いた。昨日のギバちゃんにえぐられた記憶を思い出しながら、しかし自然と笑みがこぼれ活力に溢れていた。今日は美容院に行く日だ。
4月27日 紹介状を書いてもらい精神科に電話をする
昨夜も1時に寝れた。が、寝すぎて起きたのが10時半。一回も目覚めずに安眠を欲しいままにしたのは良い事だが、いかんせん今日は通院の日であった。11時に受診だったため10時半に目覚めた時点でアウツ。「寝坊しましてー」云々を病院に伝え時間を変えてもらう。ああ、もう、久しぶりのこの感覚。昔、震える手で「寝坊しました……午前半休お願いします」と上司に伝えた時以来の気まずさ。
通院。といってもこの心療内科に通うのはおそらく最後であろう。今日は他の病院のセカンドオピニオンのための紹介状をもらう日だった。「もう予約はしたの?」とか「眠れてる?」だの最後の最後でなんだか親切な主治医。いつもは30秒で診察終わるくせに最後だけはめいっぱいの優しさが感ぜられたのはただの感傷だろうか。思えばここに来なければ休職することもできなかった。そう言った意味では健常なワールドからメンヘラのワールドへINした最初の地であり、いかばかりの感謝の念も沸く。「じゃああとは向こうのお医者さんとキチンと話してがんばってください」と語る寂しそうな主治医の背中は、元・受刑者が刑務所を出る際に看守が言う一言「もうこんなところに来るんじゃないぞ」テイストの労いの言葉を発しているようでしんみりとする。「はい、今後は真面目に働きます」っつって心で返事をする。まあ別の刑務所もとい精神科に行くわけだが。
紹介状を書いてもらったとてすぐに転院できるわけではない。事前診療が必要らしい。面倒面倒。本当の重症患者はこの時点で心折れてる。札駅のモスバーガーに腰を落ち着け、珈琲を飲みながら電話する。今度の刑務所は白石の長野病院というところだ。
電話をすると、なんとかワーカーだの専門のカウンセラー的な人が電話に出てきた。事前診療と称していくつか簡単な質問を受ける。その中で「具体的にどういった症状でお悩みですか?」と聞かれ返事に窮する。どのような症状? はて? そういえば僕は何に悩んでいるんだろうか。「難しいですね……」と思わず返す。事前診療は就職試験に似ている。個性的でホニャララワーカーの心をうつ、いや鬱、ハートレスなエピソードをアッピールしなければ入科することすら能わず。これは難関ですよふむーん。
不眠? 鬱? 自殺願望? しかし浮かんでくる対案はどれも空々しく、現実味がない。あれ、今俺別に悩んでなくないか? これはは抗うつ薬の効果だろうか。まるで志望動機を聞かれたのに別のメーカーに内定が決まっている就活生のよう。薬が切れたときに電話をかければよかったと思うが薬が切れたら電話をかける気力がわかないの負のループ。比較的元気なときに、元気じゃないときの症状を聞かれる苦しみ。
「薬が効いている時は元気なんですけど切れるとどうにも気力がわかないというか……はい、生きる気力がね、沸かない的な感じで」とモソモソと返答をすると、となりでモスチーズバーガーを食べてる男がぴくっと反応する。モスチーズ男は心の中で僕の髪をかき分け額をあらわにすると、焼きごてでもって何かを烙印する。ばあん。僕の額には「メンヘラ」のタトゥーが出来上がる。ついでに胸や肩にも「落伍者」だの「社内ニート」だの烙印を押してくれとせがむ僕。モスチーズ男の心の中の僕はシャツを脱ぎ捨て半裸になる。さあ押せ、よし押せ。精神科を受診するに足る烙印をじゅうじゅうと押し付けてくれ。早く。
結局具合のいい烙印は見つからなかった。いっそのこと腕に大名行列がはう設定で行こうかと思ったが筒井康隆や夢野久作のオマージュと思われてもシャクなのでやめた。僕は電話口で十把一絡げのいわゆるメンヘラの典型症状を思いつくまま披露。それはステレオタイプにはまった「御社の自由な社風が気に入りまして」「テニスサークルの副部長をやっておりそこで培ったリーダーシップを」「アルバイトでリーダーをやらせていただきまして」云々、1000人いたら750人ぐらいが披露するであろう退屈な自己PRのごとく心にもないことを並べ立て、これで御社(精神科)に入れるかしらと不安になる。精神科を受診出来るかどうかですら勝負がある。やはり本当のメンヘラはこの難関な入科試験にそも耐えられないのではあるまいか。事前診療で個性的でもっともらしい自己PR(症状)を披露できた健常者のみが巣食う場所が精神科なのではあるまいか。そこでは「メンヘラ」という大義名分を勝ち得た社内ニートがおいしい食事と自堕落な生活をむさぼり不正ナマポ受給者よろしく仕事をせずとも生活ができるこの世の春を謳歌しているのではあるまいか。そんな妄想も捗る。
とまれ必死の自己PRの末、どうにかこうにか明日診察を行ってもらえることになった。やったあ。
やったあ? この場合喜んでいいのだろうか? 複雑である。いっそのことなにがしワーカーから「あなたはとっくに健常ですので受診の必要はありません」とバッサリ斬り殺されていた方がよかったのだろうか。この電話面接を成功させてしまった事、それ自体が自身の不健康性ないしはメンタル不調を盾に惰眠を貪るための市民権を得る愚者の証明のようでなんとも気分が悪い。受診できても鬱、健常であっても卑怯、前門の虎後門の狼とはまさにこのこと。どうしろっつーんだおい。
とまあ色々書いてきたが、チャンチャラワーカーの方に、おべんちゃらはいい、この日記を見よ! そして僕が不健康かどうか吟味したまえ、とブログのURLを叩き付けて退散したい気持ちになった。
確実に元気になってきてる。元気に鬱々とできていて気分がよい。
4月26日 ブロック崩しゲームを作る
昨夜は1時に就寝。2日連続で安眠出来ている。が、起床は12時半。ねてもねても眠い。ああ失敗したなあと起き抜けにため息をつくと、妻から「休みの日だからいいんじゃない?」と言われる。確かに。なんで起きねばならないと思っているんだろう。僕の人生には「ねば」「ねば」が溢れている。これが病気を悪化させる一因になっているのは間違いない。せねばならないことなんて何も無い。人生の目標は「ねば」に囚われずひたすらに生きるだけだ。
起きて妻と珈琲を飲みつつ本日もプログラミング。作りかけだったブロック崩しを完成させる。調子に乗ってWebに公開した。下記でPCからのみ遊べる。
ブロック崩し
さらにプチ実況もやってみた。
公開したブロック崩しで遊んでみた pic.twitter.com/MjXrDOdQp9
— Y平 (@yhei_hei) 2015, 4月 26
我ながら難しすぎる。ボールの初速が絶妙に早いのと、勢い良くボールを叩くと物理エンジンのせいでボールが超速になるのでとてもじゃないが全部ブロックを崩すのは無理。
クリアーはできないがひとまずは単純なゲームが簡単なプログラミングで作れるのでUnityは面白い。さて次は何のゲームを作ろうか。
夜は妻が飲み会で不在のため茶太郎と二人でお留守番。茶太郎と二人、緊張する。何が緊張するってグルーミングとへやんぽがある。いつも妻と二人がかりで茶太郎を捕まえてグルーミングをしているため独りでやれるかが心配である。
グルーミングの時間になった。案の定ケージの中で茶太郎が逃げ回り捕まえられない。むなしくエプロン姿のまま茶太郎を捕まえようと努力するが無理。おまけに指をかじられて軽く負傷した。ああ。心がポキッとね。折れました。
グルーミングは断念してへやんぽだけさせる。へやんぽ中、茶太郎君は機嫌良くリビングを駆け回り、僕の足の周りをグルグルまわり「遊ぼうよ、遊ぼうよ」と催促。かわいいねー。ウサギってほんとにいいものですね。否、これは遊ぼうよのサインではなく「交尾させろ」のサイン。盛り時期の茶太郎は俺の足をダッチワイフかなんかと勘違いしている。茶太郎はブレーキランプを5回点滅ライクに僕の足をつつきつつき、僕に醸し出すサイン「こ・う・び・さ・せ・ろ」。さぶイボが立つ。この色ボケウサギめ。先ほどかじられた恨みは忘れていない。
晩飯を食べタバコを吸い吸い独り佇む。久しく忘れていた不安感が沸いてくる。何のために生まれて、何をして生きるのか。分からないまま終わる、そんなのはいやだ。とはいい歌詞を作ったものだ。無為に生きている感がすごい。いやしかし、誰も有意義に生きている人なんていないのではないか。大半の人間は糞して寝るだけだ。好きな音楽を聴いたり、好きなゲームをしたり、好きなカフェに行ったり、何も生み出さないまま過ごしている。それで幸せを感じている。それが悪い事だろうか。否。悪くない。そもそも何か生み出さなければならないという発想自体が自らの首をしめている。例え僕が茶太郎のダッチワイフとしてのみ、その生を受けたのだとしてもその生には意味がある。明日も茶太郎の肉便器として生きる。生きるのだ。